MS(多発性硬化症)とともに~生きる

10代後半から多発性硬化症と付き合ってきました。 今日1日を精一杯生きる~そして明日へと繋ぐ~

2度目の手術

4月12日(月)、反対側の左足の外反母趾の手術が行われた。

今回は9時半からだったから、それまでにお風呂(シャワー)に入っておかなければならないから焦った。

この間は入院して次の日が手術だったので考える間もなくされるままだった。

今回は入院して継続の手術だったので少し考える時間があってやや緊張した。しかし、緊張は手術室に行くまでに取れて、すんなり手術は終わった。手術室で声を掛けられ、部屋に帰ってからも声を掛けられ、ただひたすら「ありがとうございました」「お世話になりました」と必死で言っていた。

やっと折り返し地点を曲がった。

お風呂に入る時、ギブスをしているからビニール袋を巻いて水が入らないようにするが、少し隙間が空いてしまって水が入り、気が付くと薄まった血液が足の周りにたれていた。翌日にはまた血液が広がっていて、丁度当直明けの主治医が見に来てくださって、結局ギブスを巻きなおすことになった。こういうこともあるものだと興味津々見ていた。ギブスを取った左足はきれいになっていた。

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免疫細胞検査室

今までの生理検査と違って、全く新しい分野の仕事だった。学校でも習っていない。

その頃、急速に免疫学が進歩した時代で、白血病悪性リンパ腫、多発性骨髄腫など血液の悪性腫瘍のための検査室だった、というか研究室と言ってもよいくらい特殊な検査を行った。

京都大学の第2内科で行われている検査と同じレベルでやるという目標のもとにやっていたから、最初は本を読んでも頭に入らず、直ぐに眠ってしまうという有様で、ストレスで食べるのも疲れ、直ぐに疲れてしまっていた。

しかし、狭い部屋であまり動かなくてよく、マイペースで働くことが出来たから、今思うと何とか働けたのだと思う。段々仕事は上手くいき、自分に合っていると思えるようになった。特に染色体の検査は自分に合っていた。

顕微鏡を覗くことが多く、最初は酔っていたが、次第にその世界に引き込まれていった。

ただ3月になるといつも仕事が多すぎると言いだし(つまり仕事がはかどらなくなる)、電話の受け答えもままならない時があった。簡単な要件だといいが、少しでも複雑になると記憶できないのだ。何故だかわからない自分が怖かった。

T-cell、B-cell、CD4、CD8、などの分類、染色体の分析などは京大と同じレベルに出来たが、DNAの抽出になってくると段々手に負えなくなっていった。       

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卒業してから

地元に帰り、臨床検査技師として2つの病院を受けて2つとも合格したが、公務員の病院はやめて、より先進的な感じのしたKK病院を選んだ。

私は機能検査室という所謂生理検査室に配属させられた。心電図、脳波、肺機能、ガス分析などを検査する部署だった。ガス分析以外は暇だった。

暇だったのでとにかくよく遊んだ。スキー、テニス、登山、キャンプ、社交ダンスetc。夕方になると誰が言い出した訳でもなく金魚の糞のように連れ立って飲みに行った。その頃のKK病院の医師は圧倒的に京大出が多かった。

母が今できることは何でもやりなさいと言ってくれた。しかしテニスは最初はうまく打てるけれど段々グリップが下がってきて力が入らなくて、登山(北アルプス)も疲れてくるとその時の記憶がなかった。スキーは上手かったはずだが急にエッジが利かなくなり、人の中に突っ込んで以来怖くなってやめた。いつも変だという感情が付きまとっていた。

皆が運転免許を取り出したが、私は急に眠くなったり判断力が低下したりという自分に気付いていたから、敢えて取らなかった。その判断は正しかったと思う。

5年半の間、心臓病センターが出来るまで、同じ仲間でよく遊んだものだった。その後、皆はあちこちに配属された。私はこんなちゃらんぽらんな自分じゃいけないと思い、免疫の研究室のような所を希望して、働くことになった。    

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成績表

子供の頃はとにかく身体が弱かった。肺炎を5.6回、自家中毒(子供の自律神経失調症)を14.5回はして、医者がよく往診に来ていたのを覚えている。母はこの子は育たないかもしれないと思ったと言う。でも、母の愛情をたっぷり受けて育った。

小学校に上がると、1年の時書き方でいきなり金賞を取った。文章を書くのも好きだったし、習字も上手く、賞状もたくさん貰った。何をやらせても不思議とほかの子より出来た。

ただ、大人しかったから通信簿にはいつも“積極性に欠ける”と書かれてあった。

成績は良かったが、自分にとってはごく普通のことでそれが自慢でも何でもなかった。

中学に入っても何故かずっと1番だった。合唱コンクールに出るために集められた合唱部で歌うことを楽しんでいた。

高校受験の時は、私が落ちたらみんな落ちると言われながら、所謂名門校に入った。

でも、17歳の時から急に頭が悪くなって、自分が自分でなくなったことで悩み、自分がどうだったか忘れていた。

父が亡くなった後、整理をしていたら高校時代の成績表が出てきた。それを見て最初の頃はこんなに成績が良かったのかと愕然とした。自分でもすっかり忘れてしまっていた。
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