軽井沢でのキャンプ
聖書は分からないものの、読んでいるうちに人間によって書かれたものではないことが否定できなくなっていた。中学の頃から目に見えない大いなるものに祈っていたものが聖書の神だったのかと思うようになった。
私母を連れて、上高地に行くことを口実に丁度夏休みに軽井沢のキャンプがあることを知って参加した。私は母に認めてもらいたかったのだ、変な宗教でないことを。
聖書のメッセージはちっとも頭に入らなかったけれど、ベックさんの家に母と一緒に行って簡単なお話があり、ベックさんのお祈りの後に続けてお祈りをした。母は少し抵抗があるようだったのは無理もない。
あるお宅で姉妹(女性)ばかり集まってお茶をしながら悩みなどを話していた。母は皆綺麗な顔を(美人という意味でなく)しているねと言った。
軽井沢の清々しい空気と美しい木立を楽しんだ。
帰ってきてから、私は洗礼を受けた。後でわかったことだが、牧師制度はないものの集会とはいえどもその本質とするものは違っていた。
聖書研究会
20代後半くらいからの私の人生はこれ以上悪くならないと思えるほど最悪だと思われた。そんな時、朝バス停でバスを待っていると、ちょっと苦手な人に出会った。無口で話すのが苦手な私は、何か話さねばいけないと思わず「私、三浦綾子の道ありきを読んだの」と話題を探して言った。すると彼女の口から「私、クリスチャンよ」という意外な言葉が飛び出した。何故なら彼女は別の部署の検査技師だったが、人の悪口を言う私の苦手とする人だと思っていたからだ。
病院に「聖書研究会」があるよ、来ない?と言われた。そんなのがあるのかと驚いて、私は行く気になった。小説「道ありき」を読んでから聖書を読んでみたいと思ったからだ。
そこは色んな人の集まりで、元々放射線科の先生がクリスチャンで始まったようだった。
そこで聖書を読んでも頭に入って来ず、どうしたものかと思っていたら、何故か「吉祥寺キリスト集会」発行の「光よあれ」という本が置いてあって、表表紙と裏表紙の光輝く笑顔の写真に心が引かれた。その本にはどうして自分がクリスチャンになったかの「証し」が書いてあり、所々に聖書の御言葉がかかれてあった。
メンバーの二人が現地に行ってみるということになり、よかったと感動して帰ってきた。
私も行ってみたくなった。
尿が出ない
20代後半になって、ロッカーで今日は顔が丸いね、今日はそうでもないね、と言われるようになった。
そうかなぁと思いながら、尿が出にくいのに気付いた。腎機能の検査をしても異常がなかった。
その頃、いち早くKK病院に神経内科が出来たので受診してみた。重症筋無力症を疑い、テンシロンテストというのをしたが陰性だった。取り敢えず尿が出やすくなるウブレチドという薬を使ってみたら、効いて尿が出るようになった。ということで私は「重症筋無力症」ということになった。だけど筋電図や他の検査は何もしてくれなかった。
ウブレチドは劇的に効くけれど、発汗がひどくて困った。
私は早速「重症筋無力症友の会」に入会し、会合に出席した。しかし、そこに集まっている方々はどうも私とは違うと直感的に感じた。それでも本を2冊買って、上手な病気の付き合い方を読 んで、この病気なら何とかやっていけると思った。
尿が出るだけでいいと思い、私は妥協した。どこに行っていいかも分からず、休暇を取る余裕もなかった。
母との時間
私は大学入試に失敗して母の期待を裏切ったことから、母に申し訳ないとずっと負い目を負っていた。だから、母を喜ばすために一生懸命だった。
まずしたのは忘年会。青春時代のなかった母にとっては嬉しいことだったみたいだ。
そして、母の好きな旅行。最初は京都に行った。次は四国の西半分だったか・・・?
北陸の東尋坊、能登半島、黒部峡谷にも行って、東尋坊の日本海の荒れ狂う波のしぶき、黒部峡谷のトロッコ列車から見える錦絵のような紅葉の美しさには感嘆した。
そうやって東北地方以外はほとんど行っただろうか。
帰ってくると母の方がその情景をよく覚えていてよく話した。私は疲れ切っていて途中からの記憶がいつも曖昧だった。
その頃の旅行は自分で計画を立てて、時刻表の読めない母に代わってスケジュールを立てるのが楽しかった。
本来旅の醍醐味はそこにあるのだろう。
立山・黒部・ルペンルート以外は殆ど自分で計画をたてた。